2007年06月14日
詩のシャドウ・ボクシング(解説)
まっ、イキナリなんですが、「詩のシャドウ・ボクシング」の解説から。
フリー百科事典「vvikipedia」から引用してみる。
らしいです。
がははっ、こんなんもあったんですね。
つーことは、私は「cantabile,photo session」と題した写真展を友人たちと開催した頃から、同じような事を実践していたわけです(笑)
まっ、簡単に言えば「詩のボクシング」のパロディーなわけですが、「詩のボクシング」が他者とのコミュニケートの手段として位置づけられているのに対して、「詩のシャドウ・ボクシング」は仕事やSNSで他者との関わりに疲れきった末の、究極の「一人上手な遊び」であり、その根本的な立ち位置は180度違っています。
そんなこんなで、ラーメンもそこそこ飽きたんで、「詩のシャドウ・ボクシング」なんてカテゴリーで今後アップしていきますので、宜しければ拝見していただき、「ちびまる子の野口さん笑い」を浮かべつつ、「なんでやねん」なんて一人突っ込みを入れていただけると満足至極であります。
もしいるとするならば、同志の方のフォトラバ「詩のシャドウ・ボクシング」へのトラバお待ちしております。
フリー百科事典「vvikipedia」から引用してみる。
「詩のシャドウ・ボクシング」は、場末のボクシングジムに見立てたネット上で、暇な1人のブログボクサーが気分のままに自作を歪んだ大脳を使ってアップし、どんな写真と言葉がより閲覧者=他者に届いたかを手前勝手に自己が判定する「写真の遊び」、「言葉のマスタベ」です。概して、1人のブログボクサーが自らの写真と言葉で醜く自己満足するものです。「詩のシャドウ・ボクシング」は、他者からのコミュニケートをシカトし自分の言葉を投げっぱなしジャーマンにする発散の場です。
らしいです。
がははっ、こんなんもあったんですね。
つーことは、私は「cantabile,photo session」と題した写真展を友人たちと開催した頃から、同じような事を実践していたわけです(笑)
まっ、簡単に言えば「詩のボクシング」のパロディーなわけですが、「詩のボクシング」が他者とのコミュニケートの手段として位置づけられているのに対して、「詩のシャドウ・ボクシング」は仕事やSNSで他者との関わりに疲れきった末の、究極の「一人上手な遊び」であり、その根本的な立ち位置は180度違っています。
そんなこんなで、ラーメンもそこそこ飽きたんで、「詩のシャドウ・ボクシング」なんてカテゴリーで今後アップしていきますので、宜しければ拝見していただき、「ちびまる子の野口さん笑い」を浮かべつつ、「なんでやねん」なんて一人突っ込みを入れていただけると満足至極であります。
もしいるとするならば、同志の方のフォトラバ「詩のシャドウ・ボクシング」へのトラバお待ちしております。
