2017年09月22日
【リプライズ】心のミシュラン・・・とろけるよなファンキー・ラーメン 第7回
2010年エントリーの再掲。
なんと、長浜一番の先代が、新店をオープンされたらしいので、その成功を祈念して。
北九州在住のブースカさんと佐賀在住の私がコラボって「心のミシュラン」というタイトルのもと、自分史の中のエポックメイキングなラーメンたちへの想いを綴っていきます。
♪その頃もぼくらを支えてたのは
やはり このラーメンだった♪
ビートルズの解散で始まり、シド・ヴィシャスの死で終わった1970年代。
スリーマイル島原子力発電所事故が幕引きをしたそのディケードの終わりに、私は高校生だった。
栗本薫の「ぼくらの時代」と甲斐バンドの「マイ・ジェネレーション」にインスパイアされ、大江健三郎の「われらの時代 」を読んだ、そんな時代である。(ヘミングウェイの「われらの時代」も読もうと思っていたのだが、未だに果たせていない・・・)
その当時、高校の友人たちと学校の帰りに、よく一軒のラーメン店に食べに行っていた。
学校終わりに何か食べに行こうとなったら、そのラーメン店か、佐賀市の呉服元町のアーケード商店街の中にあり、地下通路のようなエントリーがあった「ドルフィンの散歩」という喫茶兼バーのようなところが多かった。
そのラーメン店は私たちの間では「長浜ラーメン」と呼ばれていた。
実はだいぶあとに、その正式屋号は「長浜一番」だと気付くのだが、何度かの店舗改装を経ても必ず屋号を示す暖簾の上に、大きく目立つ真っ赤な店舗用テントがあり、そこに「長浜ラーメン」と記されてたので、てっきりそれが屋号で、「長浜一番」というのはキャッチフレーズの類かと思っていたのである。
今でも足繁く通う人たちの中にさえ、「長浜ラーメン」が屋号であると勘違いしている人は多いと思う。
そのラーメンは当時の私にとって衝撃だった。
ラーメンに関して、一休軒本店とそれ以外の一休軒本店ほどにはうまくないその他のラーメンという分類しか持ち合わせていなかったから、元ダレがビンビンと効いていて超極細麺のラーメンにはカルチャーショックを受けた。
それに加え、初めて知った替玉というスタイルも斬新に思えた。
スープの塩分濃度が高く、食べた後には猛烈に喉が渇くのが常だったのだが、高校生の頃はもちろん完食していた。
その当時、長浜一番では大食い系のサービスとして、元のラーメンと替玉9回を食べきれば無料(女性は4回だったか?)というのをやっていた。
たしか、通算5杯目と10杯目にはスープも足してくれるというシステムだったと思う。
高校の同じクラスのやつが15杯を完食したと自慢げに語っていた後に長浜一番に行ってみると、ガッツポーズをしたそいつの写真が「15杯完食」の言葉と共に店内の壁に貼り出されていた。
久しく続いていたそのサービスが終了したのは、いつの頃だったか定かな記憶はないが、サービス終了後の壁には、日本テレビ系で放送されていた「モグモグGOMBO」という番組のロケの途中で来店したらしい、ヒロミと林家こぶ平(現:林家正蔵)の写真が、記録達成者たちの歓喜の写真に代わり飾られていた。
長浜一番と言えば、福岡にかつて同名の屋台店があり(オーナーは替わったが、佐賀にも一時出店していた長浜屋台ラーメン・ナンバーワンの前身らしい)、福岡市東区にある名島亭の店主である城戸さんや一風堂の社長の河原さんが修行した店らしいのだが、もし、佐賀の長浜一番の修行先もそこならば、佐賀の長浜一番の店主は、城戸さんや河原さんの兄弟子になるというわけだ。
もし、そうでなくても、かなり昔に佐賀の地に何故に長浜ラーメン店が開店したのかというのは、実に興味深い話である。
現在店内に置かれているマッチには、直営支店が「九大病院バス亭前」と、チェーン店が「今宿店・福岡市西区今宿徳永、佐賀店・佐賀市厘外町、大阪店・旭区赤川小学校前、広島店・広島市流川よりみち通り」と記されている。
佐賀の長浜一番の所在町名が旧住所表示(佐賀市厘外町)なので、だいぶ古いもののようだ。
ちなみに長浜一番という屋号の店は、長崎や兵庫及び京都(宝フーズ関連のお店が何店もある)にも存在しているようであるが、関連はどうなのだろうか。
現在のお店は、福岡県太宰府市で「長浜紅龍」という屋号でラーメン店を営業されていた大将の息子さん夫婦が、その店を閉めてこちらに移り、主に切り盛りされているようである。
つい先日食べたら(平成22年10月8日)、スープが元ダレ主導からいくらか出汁主導へシフトしており、以前には少なかった泡立ちも多く見て取れた。チャーシューもそれほど塩辛く、何十年ぶりかの完食をしてしまった。
これは息子さんの代に店の運営の主導権が移るとともに、味が変わり始めたということなのだろうか。なかなか美味しい一杯だったので今後の期待は大きい。
はてさて、佐賀市及びその近郊の昔ながらの滋味哀愁系のラーメン店では、老夫婦で営業されていて跡継ぎがいないところがほとんどである。
しかし、佐賀市内のこの長浜ラーメン店には後継者がしっかり存在するというのは、なにか歴史の悪戯的なものを感じずにはおられない佐賀ラーメンファンの私なのだが、特段悲観するものではない。いやいや、大変喜ばしいことだ。
その歴史は、十分に「佐賀のラーメン店」として、確固たる地位を築いているのだから。
ジョン・レノンの没後30年にあたる、21世紀の最初のディケイドの最期の年である今年2010年に、長浜一番は一つの時代のエンディングと新たな時代へのリスタートを迎えているようである。
過去ログ
■第1回(一休軒本店)
■第2回(再来軒)
■第3回(成竜軒)
■第4回(まこと)
■第5回(幸陽軒)
■心のミシュラン外伝1(佐賀ラーメン慕情)
■第6回(いちげん)
ブースカさんの過去ログ
■第1回(万龍)
■第2回(八媛)
■第3回(南京ラーメン黒木:前編)
■第4回(久留米への想い)
■第5回(黒崎の夜)
■心のミシュラン外伝1(佐賀ラーメン慕情)
■第6回(黒木と黒門と卵入りラーメン)
■心のミシュラン外伝2(黒木への慕情)
■心のミシュラン外伝3(ドンブリの巻 上)
2017年02月06日
【リプライズ】心のミシュラン・・・とろけるよなファンキー・ラーメン 第4回(まこと)
2008年エントリーの再掲。
佐賀神社の近くにあった屋台のおはなしです。
北九州在住のブースカさんと佐賀在住の私がコラボって「心のミシュラン」というタイトルのもと、自分史の中のエポックメイキングなラーメンたちへの想いを綴っていきます。
♪その頃もぼくらを支えてたのは
やはり このラーメンだった♪
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
佐賀の街から屋台が消えてどのくらい経つのだろうか?
その昔、佐賀神社の近辺には数多くの屋台が営業していた。
その中でも私のお気に入りは「まこと」という屋号のお店だった。頻繁に通っていたのだが「まこと」が「真」だったのか「誠」だったのか記憶が混沌としていて思い出せない。あるいは、ひらがなの「まこと」だったのだろうか?
佐賀神社前の交番のある変形交差点の北東の隅、水路に架けられた橋の上で「まこと」は営業していた。近所の屋台では出していないラーメンを食べさせてくれるので必然的に選択していた屋台であった。友人たちと飲んでいて盛り上がってしまうと、スナック(懐かしい響きだw)の閉店はおおよそ2時なので、不完全燃焼だった場合は、、あとひと盛り上がりを求めてお酒も飲めてラーメンで〆られるという「まこと」に通っていたのだ。何度「まこと」で夜明けを迎えたことだろうか。
佐賀に家を作る前の島田洋七さんが、同窓会のために佐賀入りしてて友人たちと「まこと」におられる姿や、「まこと」のファンで新聞広告(酒造メーカーの広告)の素材として「まこと」を紹介されていた筒井ガンコ堂さんが「まこと」のおでんをつまんでいる姿もよく見かけたなぁ。
おでんを一年中やっていて、厚揚げや大根やスジや佐賀では珍しかったじゃがいもをツマミに冷酒をあおっていた。そのおでんには風味を加味するためか「剣菱」がなみなみと注がれていたのが強烈に印象に残っている。
ぐでんぐでんになった体に〆の「まこと」のラーメンは無性に旨かった。アルコールに浸潤されすぎた体をニュートラルな立ち位置に戻してくれるような錯覚さえ覚えたものだ。何が旨かったのか説明できないが、その時のその場所に嵌りすぎているラーメンだったのである。
一度だけ、素面の状態で「まこと」に行ったことがあった。数杯の冷酒を数種のおでんと共に体内に流し込んだあとにラーメンをオーダーした。大将がラーメンを作るプロセスを初めて目で追ってみた。大量の旨味調味料が丼に入れられていた。旨味調味料肯定派な私なのだが、目前でこれほどの量を投入されてはと、たじろぐものだった。
ラーメンを食べてみると、異常に尖がった味でピリピリと舌を刺激する。苦手なラーメンだった・・・。
「ラーメンとはなんなのだろう」そんな漠然とした疑問を頭に巡らせながら、そのラーメンを食べ進めた。この味は今日だけの不出来なのだろうか?旨味調味料の投入シーンを目撃し大脳がネガティプモードに移行していたから不味く感じるのだろうか?
その「事件」のあとも、何度も「まこと」のラーメンを食べた。もちろん、ヘベレケ状態限定ではあったが・・・。そして二度と「まこと」のラーメンは裏切ることはなかったのである。
絶対音感と同意議な絶対味覚は決して存在しえない。十人十色二十舌というフレーズを私は使っているけど、一個人にとっても、その置かれた環境で味覚は大きくゆらぐのだ。味覚をデータベース化しようとしても、そのコンプリートは永遠に成し遂げられないミッションなのだ。そう言った意味では、薀蓄やこだわりの情報で語られるラーメンは、決して半永久的に人の心を繋ぎとめる事ができないのではないだろうか?
あぁ、あの「まこと」のラーメンをもう一度たべてみたいなぁ。
(あぁ、あの「まこと」のラーメンを食べていた頃にもう一度戻ってみたいなぁ。)
過去ログ
■第1回(一休軒本店)
■第2回(再来軒)
■第3回(成竜軒)
ブースカさんの過去ログ
■第1回(万龍)
■第2回(八媛)
■第3回(南京ラーメン黒木:前編)
■第4回(久留米への想い)
2017年02月05日
【リプライズ】心のミシュラン・・・とろけるよなファンキー・ラーメン 第5回(幸陽軒)
2008年エントリーの再掲。
幸陽閣の前身、佐賀市大財(おおたから)一丁目に夜専門店として営業していたラーメン店・幸陽軒の思い出をつづったもの。
同じ大将が作っているのだが、現在と味の趣が微妙に異なっていた。昼専になったことが原因なのかは定かではない・・・・。
■心のミシュラン・・・とろけるよなファンキー・ラーメン 第5回
北九州在住のブースカさんと佐賀在住の私がコラボって「心のミシュラン」というタイトルのもと、自分史の中のエポックメイキングなラーメンたちへの想いを綴っていきます。
♪その頃もぼくらを支えてたのは
やはり このラーメンだった♪
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
今年の三月一杯で、幸陽軒は閉店してしまった。
現在、店主ご夫婦は、佐賀市下田町(西部環状線沿い・旧イエローパンプキンの店舗)で幸陽閣という焼肉店を営業されている。佐賀牛のみを使用されている、おいしく良心的な焼肉店なのだが、あのラーメンを食べることは出来ない。
あの力技で圧倒されるような、図太く逞しいラーメンとは二度と邂逅することは出来ないのである。
その昔、佐賀市の飲み屋街の中心は、ラサンビルと南国ビルだった。はしごをしていると、何度となく二つのビルの間を往復したものである。
その途上に幸陽軒は存在していた。
幸陽軒の道路対面には、皆から竜崎と呼ばれていたスキンヘッドの愛想の良い呼び込みのおっちゃんがいて、3時までの営業なのに麺切れのための早めの閉店に出くわすと、「残念だったね。さっき暖簾を下ろしていたよ」なんて教えてくれたりもした。
佐賀に住んでいて、東京に行くと一番びっくりするのは飲食店の行列の存在であった。なんともその成り立ちなり仕組みが理解できないのである。特にラーメン店の行列は。気に入ったラーメン店が複数あり、どのお店も長らく通いつづけているならば、行列して待つなんて概念は発生しないのである。
しかしながら、幸陽軒の行列だけは別であった。飲みの〆に幸陽軒というのは、ある意味、疑う余地が微塵もない公理みたいなものだったのである。佐賀では稀有な飲食店の行列に加わるというのは、至極、当たり前の行動だった。
幸陽軒店主の川上さんは、一休軒本店で修行したあと佐賀市神野の高架下でラーメン店を開店したという。そのお店は飲食店としては場所が良くなく、客入りは芳しくなかったとか。佐賀市の大財通り沿いに移転したら、タクシードライバーの口コミなどで評判になり繁盛したらしい。その後、手狭なキャパシティーの解消のため飲み屋街の愛敬通りに移転した(所在地の住所は佐賀市大財一丁目)という事情らしい。
一休軒系のお店でありながら、そのラーメンの趣は異端だった。一休軒系の滋味あっさりとは、一線を画すものだったのである。
平均的なラーメン店と比べると数倍の量の豚骨を長時間煮詰めて取られていた出汁は、他に比類すべきものがないような「こってり濃厚」なものだった。「こってり濃厚」という言葉が、安易に脂の量を示す概念として語られることがある。しかしながら幸陽軒のスープの味は、脂に頼らない真の「こってり濃厚」だったのである。
時としてそのスープは褐色に輝いていた。その味が愛しくて、丼を抱きしめたくなるようなことが何度もあった。店内が満席になると、かなりの人数前の麺揚げが一度に行われていた。出てきたラーメンの麺は超やわやわで、デンプンの一歩手前かと悶絶しそうなこともあった。しかし、極上スープの存在の前では、「まあ、いいか。仕方ない」と妥協できたほどであった。
本来ラーメンは、スープと麺が織り成す味覚と食感を楽しむ食べ物のはずなのであるが、幸陽軒のラーメンに関しては、完全に他には活用できないケーススタディみたいな一杯だったのだ。大体は酸化していて苦味があったチャーシューとユル度MAXの麺は、完全に添え物だったのである。
大量の豚骨を使用していたので、季節によるその質の変動によるものなのか、今日はハズレだなと思うこともあった。しかしそれでもなお、幸陽軒のラーメンの呪縛から解き放たれることはなかったのである。
年齢的に長時間の仕込みが難しくなってきた、というのが閉店の理由らしく、後継者もいないようである。
一子相伝どころか、全くの一代で途絶えようとしている幸陽軒。
白毛馬が突然変異で生まれる確率は数万頭に一頭らしい。一方、一年間に開店するラーメン店は全国で5千店ほどとのこと。佐賀県内で一年間に新規開店するラーメン店は、多めに考えてもニ、三十店というところだろう。
とすれば、突然変異的な味を持っていた幸陽軒と似たようなラーメン店が、佐賀に新規開店する確率は、どう考えても白毛馬が生まれてくる確率より、かなり低くそうである。
白毛馬が、日本ダービーとエプソムダービーと凱旋門賞を三連覇するぐらいの確率だろうか。その確率を表す分数の分母は、恒河沙とか阿僧祇とか那由他なんていう天文学的数字になるに違いない。
いずれにせよ、幸陽軒の行列に並んでいる間に酔いが若干醒めて、隣の甘栗屋で家族へのお土産を買うなんて夜は、二度と訪れることはないのである。
※久留米を発祥とする幸陽軒(丸幸ラーメンセンターもその系統)と、佐賀市に存在していた幸陽軒とは、何ら関係ありません。
過去ログ
■第1回(一休軒本店)
■第2回(再来軒)
■第3回(成竜軒)
■第4回(まこと)
ブースカさんの過去ログ
■第1回(万龍)
■第2回(八媛)
■第3回(南京ラーメン黒木:前編)
■第4回(久留米への想い)
■第5回(黒崎の夜)
2017年01月12日
【リプライズ】佐賀・心のミシュラン(ロングインタビュー#1 池田屋)
2012年のエントリーの再掲。
店舗データが古いものや、ハイパーリンク切れがあるが、あえてオリジナル・エントリーのままで。
最新店舗データはFace Book ページで。
さあ、楽しいインタビューの時間デス。
ロングインタビューの第一弾は、佐賀大学本庄キャンパスの近所で、今では貴重となった和風出汁ちゃんぽん(注釈1)を、1990年(平成2年)の開店以来、23年にわたり提供している「池田屋」です。
インタビューに入る前に、少々予習をしておきましょう。そもそも「ちゃんぽんとは何か」ということと、「池田屋」が味を承継している「中村食堂」についてです。
■「ちゃんぽん」とは何か
「ちゃんぽん」の語彙としての意味は、「まぜこぜ・混同」というものと、長崎発祥の料理をさすものとがある。
広辞苑(第六版第一刷、2008.1.11発行、岩波書店)及び大辞泉(増補・新装版第一刷、1998.11.20発刊、小学館)によれば、いずれも前者の意味を一番目に記載し、後者の料理としてのちゃんぽんの方は二番目の意味として記載されている。
事実として、「まぜこぜ・混同」の方は江戸時代から用例が見られ、長崎で料理の名称として用いられ出したのは、諸説あるようだが明治時代で間違いはないようなので、両辞書の扱いは正しいのかも知れない。
料理としての「ちゃんぽん」をこよなく愛するわたくしとしては、「まぜこぜ・混同」の方に料理の方が負けているのは心外なのだが、さすがわれらの「新解さん」こと新明解国語辞典(第7版、2012.1.10発行、三省堂)。こちらでは、「肉・野菜などを入れて、中華風のスープで煮た麺料理。(元来、長崎料理)」と「まぜこぜ・混同」を差し置いて一番目に記載されている(笑)
料理としての「ちゃんぽん」の発祥は、明治後期の長崎の「四海樓」である(注釈2)というのが定説のようだが、私が自身のブログで『「ちゃんぽん」だ、ニャロメ!』というエントリーでちょっと触れているように、明治初期に遡るとの異説もあるようである。
まぁしかし、様々な語源説(注釈3)があったり、沖縄料理「チャンプルー」との関連性があったりと、「ちゃんぽん」の世界はカオス的で魅惑に満ちているのは間違いない。
■「中村食堂」のちゃんぽん
現在の佐賀大学本庄キャンパスの正門前道路の角で63年の歴史を刻み、平成2年に閉店した中村食堂は、旧制佐高の時代から佐賀大学の学生・教授・職員に名物の和風出汁ちゃんぽんを提供し続けていた。
中村食堂は、もともと「美どり屋」という屋号だったらしいのだが、常連客は四つ角にあったので「かどや」と呼んだり、学生たちは親しみを込めて「なかむら屋」と呼んでいたそうである。(注釈4)
平成2年4月1日付の佐賀新聞の記事では、前日にその歴史を閉じた中村食堂の歴史を紹介するとともに、閉店日の賑いを伝え、「佐大時代、教授に”中村食堂のチャンポンを知らないものは佐大生にあらず”と言われたのをおぼえている。残念です」との同大卒業生のコメントと、当時84歳だった店主の故中村ハルさんの写真を載せている。
中村食堂で、開店当時に二十銭で提供されていた「和風出汁ちゃんぽん」は、鶏ガラ出汁や豚骨出汁のちゃんぽんにおされ、現在ではマイナーなちゃんぽんとなってしまったが、その味を今も頑なに承継し続ける池田屋の「物語」は、私たちがいつの間にか捨ててきた、古き良き時代の、単にノスタルジックでは片付けられない「人と人のつながり」や「食べ方・生き方の基本」を教えてくれるものである。
それでは、「池田屋」の大将・池田信宏さんへのインタビューです。
まずは、「池田屋」を開店し、「中村食堂」の和風出汁ちゃんぽんの味を守ることとなったいきさつを。
『高校性の頃に佐大正門前にあった旭屋(注釈5)という酒店でアルバイトをしていたので、中村食堂のちゃんぽんはよく食べていた。その当時、他に美味いと思って食べていた「ちゃんぽん」は鶏ガラ出汁の若柳食堂ぐらいのものだったかな。県外に就職しブランクはあったけど、Uターンし佐賀で働きだしてからは頻繁に通っていたんだ。結婚して子供もできた頃かなぁ、中村食堂のハルばあさんが、いきなり厨房越しに声をかけてきたんだ。「池田くん、あんたちゃんぽん屋にならんかい?あたいがちぁんとおしゆっけん」って。それから半年ぐらいどうしようかと躊躇していたんだけど、中村食堂のそう遠くない閉店は感じていたんで、この和風出汁のちゃんぽんが食べられなくなって一番困るのは自分自身だなと思って決断した(笑)』
ハルばあさんの鶴の一声のあと、決心した池田屋の大将は、以前からの仕事をつづけながら修行に入ることになったのである。
『朝の五時か六時ぐらいには中村食堂に行って、仕込みの手伝いをしつつ、和風出汁ちゃんぽんの手法を学んでいった。出勤の時間が迫ると、自分用のちゃんぽんを一杯だけ作って、自分の朝食としていた。半年ぐらいはそういう生活を続け、中村食堂の閉店の日には、サポートとして厨房の中に入っていた。1990年5月14日の池田屋開店にあたっては、ハルばあさんは中村食堂の屋号も備品も譲るよと言ってくれたのだが、土釜の移設だけは甘えて、その他は敢えて自力で始めようと決めた。』
どうして、ハルばあさんは、池田屋の大将に後を託そうと思ったのだろうか。
『中村食堂の閉店時には、有償で和風出汁ちゃんぽんの手法を教えてほしいという要望もあったらしい。そんな中で、なぜ私を選んだのかは、ハルばあさんには直接、聞いたことはなかった。その頃は今と違って私も人当たりが良く(笑)、客商売に向いているとハルばあさんは思ったのかもしれない。ただ、近所の酒屋・旭屋でアルバイトをしていた過去があるので、佐賀大学の教職員やその周辺の住民とは顔見知りだったので、その人たちが「つながり」を感じて贔屓にしてくれるという、ハルばあさんの「そろばんずく」だったのかもしれないと、今となっては思ったりもする。』
鶏ガラや豚骨から出汁を採る、現在主流のちゃんぽんとは違い、和風出汁のちゃんぽんには、経験と手間が必要なのだとか。なおかつ、調理時も繊細な手順を守らなければ「池田屋」のちゃんぽんは完成しない。
『昆布と数種類の節から採る出汁の仕込みは前日には必要。先ずは昆布をアルカリ水で長時間煮だす。その際は弱火であることが必須。そうでないと十分な旨味は出ない。そこに節類を加えるが、繊細な調整が必要なので一度に大量には仕込めないので、そこが和風出汁の難点であり面白さでもある。ちゃんぽんのオーダーがあってから玉ねぎは切る。そうしないとエグ味が出てしまう。人参も熱を加えすぎると必要以上に発色してしまうので、切り方や鍋への投入のタイミングには工夫が必要。もやしはシャキシャキ感を生かすため、鍋の火を止めてから投入する。炒めた具材に和風出汁を加えるタイミングで大きく味が異なるし、スープにとろみを加えるための水溶き片栗粉の量を季節に応じて変えるなど、なかなか気が抜けるポイントがない。最後に麺を投入するのだが、通常の茹で麺の場合は、麺自体をほぐし熱を加える程度。時々、「硬麺」オーダーがあるけど、生麺でなく茹で麺なので硬くしようがない(笑)いちいち説明するのもバツが悪いから、ノーマルのものを「はい、どうぞ」って出すんだけど・・・。』
開店以来、お店を取り巻く環境も大きく変わってきたのだそうだ。
『開店直後は佐賀大学への出前が多かった。30分の間隔で三度に分けて持って行っていた。まぁ、時代も大らかだったから出前を取ったお客さんも、正午前から「麺が伸びるから」と食べられた時代だったんだけどね。今は、そのあたりが厳しいから正午丁度でないと出前は持っていけない。そうなると、店舗に来店してくれるお客さんとバッティングするから、実質上、出前は難しくなってしまった。それに、佐賀大学の学生も様変わりしてしまった。以前は、先輩が後輩を連れてきて「ちゃんぽん」の味が申し送りされるような感じだったのだけど、いまはほとんどそんな光景はない。学生のライフスタイルが変わり、一人あるいは数人で学食や近所のファミレスなんかで食事をし、個人経営の食堂へ行こうという学生は珍しくなったようだ。そのことと直接関係しているかどうかは自信がないけど、最近の学生・若者は食べ方を知らない。麺と具材をバランスよく食べるという感覚がなく、丼に大量に野菜が残ったままで箸を置いたり、カレーセットをオーダーした時にカレーから口をつけて、和風出汁ちゃんぽんの繊細な味わいを感じられなくなるような食べ方をしたり。お客さんだから文句は言えないけど、作り手としてなんだか寂しくなるのは事実。そんな光景を繰り返し見てきて、私自身が寡黙な職人になってしまったのかもしれない。昔はこう見えても、ものすごく愛想が良かったんだよ(笑)
2003年から提供を始めた「蒸し麺」は、デフォルトの「茹で麺」とは、また違った食感で舌を楽しませてくれる。
『北九州の戸畑にある田中製麺所の蒸し麺を使っている。独特の製法で作られる麺は、保存性に優れていて、常温でも二週間は味が変わらない。ちゃんぽんと皿うどんで使っているけど、最近はオーダーが多くなった。もちろん、茹で麺とは違うその食感は一度試してみて欲しいのだけど、初めての来店でいきなり蒸し麺をオーダーされると、少し悲しくなるね。まずは茹で麺を食べて、うちの基本の味を確かめてほしい。最近は情報を食べに来ている若い人も多いように感じる。妙に面白い時代になったと感心することがあるよ。』
開店当時に、メニュー構成を考えて加えたというカレーも池田屋の名物メニューとなっている。
『自分の好きな味のカレーを作っているだけ。具材がゴツゴツと入っているのは嫌いなので、すべての具材はミキサーにかけてペースト状にしてスパイスと合わせている。見た目からは想像できないけど、結構な数の材料を使っている(笑)野菜の甘みが先ずは舌を刺激し、辛さが後から追いかけてくるタイプだけど、砂糖は使っていないから嫌な後味は残さない。ほんとうに、流行廃りとは関係なく、自分の好みと舌を信じて作っているだけなんだけどね。』
池田屋の「ちゃんぽん」と「カレー」は通販での購入も可能で、電話・FAX・メールで注文を受け付けている。また、「カレー」は「佐賀風土館 季楽 直販本店(佐賀市大財三丁目)(注釈6)」、「alta(アルタ)開成店」、「alta(アルタ)高木瀬店」及び「alta(アルタ)新栄店」でも購入が可能である。
『出来立てのちゃんぽんを熱々のまま袋詰めし、素早く密封・冷却することで野菜のシャキシャキ感を残し、ほとんどお店の味に近い状態のままクール宅急便でお届けできる。結構、全国各地から注文をもらっている。佐賀大学OBから定期的に注文がくると、こちらも嬉しくなるね。ただ、ちゃんぽんはどうしても賞味期限が限られるから、東京あたりだと届いてから二、三日のうちに食べてもらうことになるけどね。カレーは冷蔵すれば一ケ月は大丈夫だから、ぜひ試してみて欲しいね』
これからの抱負や夢があれば。
『特にこれといったものはないけど、何事についても「基本を知れ」ということを自分自身に言い聞かせている。ちゃんぽんの作り方についても、今までは職人の勘で作ってきたけど、歳を食って味覚が鈍化するかもしれないと、正確なレシピを記録した。変わらない味を出し続けるというのは、思ったよりも難しいものだよ。店主としての戯言だけど、お客さんも食べ方の基本を知って、美味しく正しく食べてほしいものだね。サラリーマンじゃなくて商売をしたいという気持ちがあって、池田屋を23年もやってきたけど、趣味のバイクに走りたいという気持ちもあったりする。日曜日を店休日にして、今乗ってるBMWのK1200RSで仲間とツーリングに出かけたいという欲望もあるけど、日曜日にしか来店できない常連さんも多いから無理なんだけどね(笑)』
鶏ガラや豚骨から出汁を採るちゃんぽんが主流となった現在、池田屋の和風出汁ちゃんぽんは、まさに絶滅危惧種状態である。その貴重な味がいつまでも身近に食べられるように、店主には頑張ってほしいと願わずにはいられない。そしていつの日か、「あんたちゃんぽん屋にならん?おいがちゃんとおしゆっけん」と意中の誰かに告げて、その味を承継させてほしいものである。
(注釈1)ウィキペディアの「ちゃんぽん」の項によれば、彦根と八幡浜にも和風出汁ちゃんぽんは存在しているようである。
(注釈2)四海樓の現代表取締役社長である陳優継氏の著書(『ちゃんぽんと長崎華僑』長崎新聞社、2009年、P17)では、曾祖父であり四海樓の創業者・陳平順氏の訃報が1939年4月14日付の長崎日日新聞朝刊に掲載されたと記載するとともに、陳平順氏が「ちゃんぽん」「皿うどん」の考案者だと紹介されている。
(注釈3)日本語源大辞典(小学館、2005年4月1日初版第一刷発行)では、「攙和の中国音chan-hoから」及び「チャン(鉦)とポン(鼓)を交互に鳴らしたことからか」と記載されている。(参考リンク:独りしゃべり「チャンポンの由来」)
(注釈4)既廃刊のフリーペーパー「HANAKO」の1984年4月号での、中村食堂店主・故中村ハルさんへのインタビュー「なかむら屋物語」で、店主自らが語っている。
(注釈5)道路拡張に伴う移転で、現在は佐賀市鍋島町蠣久で営業されている。
(注釈6)池田屋は「季楽 直販本店」に、お盆と年末年始には数量限定で佐賀牛のリブロースを使った、かなり贅沢な極上カレーも納品している。
2015年05月15日
心のミシュランまとめ
山口佐賀県知事が自身のFBページの≪突撃!さがのひるごはん≫という企画(?)で池田屋を訪れ(店名は「事務所近くの某有名ちゃんぽん店」と記載。)、大将とのツーショット写真を撮っていたので
「公人としてではなく政治家としてのFBページなんで、地域活性化=個人商店の応援という観点からも、はっきりと店名出して良く無くない??」
とコメントしたら、
「【from staff】今仁さん、ご意見ありがとうございます。まさに、その点を検討しているところです。しっかり参考にしたいと思います。(追伸…事務所へもぜひいらして下さい。お待ちしています!)」
とコメントが帰って来たぞ記念で、過去ログ再掲ww
さあ、楽しいインタビューの時間デス。
ロングインタビューの第一弾は、佐賀大学本庄キャンパスの近所で、今では貴重となった和風出汁ちゃんぽん(注釈1)を、1990年(平成2年)の開店以来、23年にわたり提供している「池田屋」です。
インタビューに入る前に、少々予習をしておきましょう。そもそも「ちゃんぽんとは何か」ということと、「池田屋」が味を承継している「中村食堂」についてです。
■「ちゃんぽん」とは何か
「ちゃんぽん」の語彙としての意味は、「まぜこぜ・混同」というものと、長崎発祥の料理をさすものとがある。
広辞苑(第六版第一刷、2008.1.11発行、岩波書店)及び大辞泉(増補・新装版第一刷、1998.11.20発刊、小学館)によれば、いずれも前者の意味を一番目に記載し、後者の料理としてのちゃんぽんの方は二番目の意味として記載されている。
事実として、「まぜこぜ・混同」の方は江戸時代から用例が見られ、長崎で料理の名称として用いられ出したのは、諸説あるようだが明治時代で間違いはないようなので、両辞書の扱いは正しいのかも知れない。
料理としての「ちゃんぽん」をこよなく愛するわたくしとしては、「まぜこぜ・混同」の方に料理の方が負けているのは心外なのだが、さすがわれらの「新解さん」こと新明解国語辞典(第7版、2012.1.10発行、三省堂)。こちらでは、「肉・野菜などを入れて、中華風のスープで煮た麺料理。(元来、長崎料理)」と「まぜこぜ・混同」を差し置いて一番目に記載されている(笑)
料理としての「ちゃんぽん」の発祥は、明治後期の長崎の「四海樓」である(注釈2)というのが定説のようだが、私が自身のブログで『「ちゃんぽん」だ、ニャロメ!』というエントリーでちょっと触れているように、明治初期に遡るとの異説もあるようである。
まぁしかし、様々な語源説(注釈3)があったり、沖縄料理「チャンプルー」との関連性があったりと、「ちゃんぽん」の世界はカオス的で魅惑に満ちているのは間違いない。
■「中村食堂」のちゃんぽん
現在の佐賀大学本庄キャンパスの正門前道路の角で63年の歴史を刻み、平成2年に閉店した中村食堂は、旧制佐高の時代から佐賀大学の学生・教授・職員に名物の和風出汁ちゃんぽんを提供し続けていた。
中村食堂は、もともと「美どり屋」という屋号だったらしいのだが、常連客は四つ角にあったので「かどや」と呼んだり、学生たちは親しみを込めて「なかむら屋」と呼んでいたそうである。(注釈4)
平成2年4月1日付の佐賀新聞の記事では、前日にその歴史を閉じた中村食堂の歴史を紹介するとともに、閉店日の賑いを伝え、「佐大時代、教授に”中村食堂のチャンポンを知らないものは佐大生にあらず”と言われたのをおぼえている。残念です」との同大卒業生のコメントと、当時84歳だった店主の故中村ハルさんの写真を載せている。
中村食堂で、開店当時に二十銭で提供されていた「和風出汁ちゃんぽん」は、鶏ガラ出汁や豚骨出汁のちゃんぽんにおされ、現在ではマイナーなちゃんぽんとなってしまったが、その味を今も頑なに承継し続ける池田屋の「物語」は、私たちがいつの間にか捨ててきた、古き良き時代の、単にノスタルジックでは片付けられない「人と人のつながり」や「食べ方・生き方の基本」を教えてくれるものである。
それでは、「池田屋」の大将・池田信宏さんへのインタビューです。
まずは、「池田屋」を開店し、「中村食堂」の和風出汁ちゃんぽんの味を守ることとなったいきさつを。
『高校性の頃に佐大正門前にあった旭屋(注釈5)という酒店でアルバイトをしていたので、中村食堂のちゃんぽんはよく食べていた。その当時、他に美味いと思って食べていた「ちゃんぽん」は鶏ガラ出汁の若柳食堂ぐらいのものだったかな。県外に就職しブランクはあったけど、Uターンし佐賀で働きだしてからは頻繁に通っていたんだ。結婚して子供もできた頃かなぁ、中村食堂のハルばあさんが、いきなり厨房越しに声をかけてきたんだ。「池田くん、あんたちゃんぽん屋にならんかい?あたいがちぁんとおしゆっけん」って。それから半年ぐらいどうしようかと躊躇していたんだけど、中村食堂のそう遠くない閉店は感じていたんで、この和風出汁のちゃんぽんが食べられなくなって一番困るのは自分自身だなと思って決断した(笑)』
ハルばあさんの鶴の一声のあと、決心した池田屋の大将は、以前からの仕事をつづけながら修行に入ることになったのである。
『朝の五時か六時ぐらいには中村食堂に行って、仕込みの手伝いをしつつ、和風出汁ちゃんぽんの手法を学んでいった。出勤の時間が迫ると、自分用のちゃんぽんを一杯だけ作って、自分の朝食としていた。半年ぐらいはそういう生活を続け、中村食堂の閉店の日には、サポートとして厨房の中に入っていた。1990年5月14日の池田屋開店にあたっては、ハルばあさんは中村食堂の屋号も備品も譲るよと言ってくれたのだが、土釜の移設だけは甘えて、その他は敢えて自力で始めようと決めた。』
どうして、ハルばあさんは、池田屋の大将に後を託そうと思ったのだろうか。
『中村食堂の閉店時には、有償で和風出汁ちゃんぽんの手法を教えてほしいという要望もあったらしい。そんな中で、なぜ私を選んだのかは、ハルばあさんには直接、聞いたことはなかった。その頃は今と違って私も人当たりが良く(笑)、客商売に向いているとハルばあさんは思ったのかもしれない。ただ、近所の酒屋・旭屋でアルバイトをしていた過去があるので、佐賀大学の教職員やその周辺の住民とは顔見知りだったので、その人たちが「つながり」を感じて贔屓にしてくれるという、ハルばあさんの「そろばんずく」だったのかもしれないと、今となっては思ったりもする。』
鶏ガラや豚骨から出汁を採る、現在主流のちゃんぽんとは違い、和風出汁のちゃんぽんには、経験と手間が必要なのだとか。なおかつ、調理時も繊細な手順を守らなければ「池田屋」のちゃんぽんは完成しない。
『昆布と数種類の節から採る出汁の仕込みは前日には必要。先ずは昆布をアルカリ水で長時間煮だす。その際は弱火であることが必須。そうでないと十分な旨味は出ない。そこに節類を加えるが、繊細な調整が必要なので一度に大量には仕込めないので、そこが和風出汁の難点であり面白さでもある。ちゃんぽんのオーダーがあってから玉ねぎは切る。そうしないとエグ味が出てしまう。人参も熱を加えすぎると必要以上に発色してしまうので、切り方や鍋への投入のタイミングには工夫が必要。もやしはシャキシャキ感を生かすため、鍋の火を止めてから投入する。炒めた具材に和風出汁を加えるタイミングで大きく味が異なるし、スープにとろみを加えるための水溶き片栗粉の量を季節に応じて変えるなど、なかなか気が抜けるポイントがない。最後に麺を投入するのだが、通常の茹で麺の場合は、麺自体をほぐし熱を加える程度。時々、「硬麺」オーダーがあるけど、生麺でなく茹で麺なので硬くしようがない(笑)いちいち説明するのもバツが悪いから、ノーマルのものを「はい、どうぞ」って出すんだけど・・・。』
開店以来、お店を取り巻く環境も大きく変わってきたのだそうだ。
『開店直後は佐賀大学への出前が多かった。30分の間隔で三度に分けて持って行っていた。まぁ、時代も大らかだったから出前を取ったお客さんも、正午前から「麺が伸びるから」と食べられた時代だったんだけどね。今は、そのあたりが厳しいから正午丁度でないと出前は持っていけない。そうなると、店舗に来店してくれるお客さんとバッティングするから、実質上、出前は難しくなってしまった。それに、佐賀大学の学生も様変わりしてしまった。以前は、先輩が後輩を連れてきて「ちゃんぽん」の味が申し送りされるような感じだったのだけど、いまはほとんどそんな光景はない。学生のライフスタイルが変わり、一人あるいは数人で学食や近所のファミレスなんかで食事をし、個人経営の食堂へ行こうという学生は珍しくなったようだ。そのことと直接関係しているかどうかは自信がないけど、最近の学生・若者は食べ方を知らない。麺と具材をバランスよく食べるという感覚がなく、丼に大量に野菜が残ったままで箸を置いたり、カレーセットをオーダーした時にカレーから口をつけて、和風出汁ちゃんぽんの繊細な味わいを感じられなくなるような食べ方をしたり。お客さんだから文句は言えないけど、作り手としてなんだか寂しくなるのは事実。そんな光景を繰り返し見てきて、私自身が寡黙な職人になってしまったのかもしれない。昔はこう見えても、ものすごく愛想が良かったんだよ(笑)
2003年から提供を始めた「蒸し麺」は、デフォルトの「茹で麺」とは、また違った食感で舌を楽しませてくれる。
『北九州の戸畑にある田中製麺所の蒸し麺を使っている。独特の製法で作られる麺は、保存性に優れていて、常温でも二週間は味が変わらない。ちゃんぽんと皿うどんで使っているけど、最近はオーダーが多くなった。もちろん、茹で麺とは違うその食感は一度試してみて欲しいのだけど、初めての来店でいきなり蒸し麺をオーダーされると、少し悲しくなるね。まずは茹で麺を食べて、うちの基本の味を確かめてほしい。最近は情報を食べに来ている若い人も多いように感じる。妙に面白い時代になったと感心することがあるよ。』
開店当時に、メニュー構成を考えて加えたというカレーも池田屋の名物メニューとなっている。
『自分の好きな味のカレーを作っているだけ。具材がゴツゴツと入っているのは嫌いなので、すべての具材はミキサーにかけてペースト状にしてスパイスと合わせている。見た目からは想像できないけど、結構な数の材料を使っている(笑)野菜の甘みが先ずは舌を刺激し、辛さが後から追いかけてくるタイプだけど、砂糖は使っていないから嫌な後味は残さない。ほんとうに、流行廃りとは関係なく、自分の好みと舌を信じて作っているだけなんだけどね。』
池田屋の「ちゃんぽん」と「カレー」は通販での購入も可能で、電話・FAX・メールで注文を受け付けている。また、「カレー」は「佐賀風土館 季楽 直販本店(佐賀市大財三丁目)(注釈6)」、「alta(アルタ)開成店」、「alta(アルタ)高木瀬店」及び「alta(アルタ)新栄店」でも購入が可能である。
『出来立てのちゃんぽんを熱々のまま袋詰めし、素早く密封・冷却することで野菜のシャキシャキ感を残し、ほとんどお店の味に近い状態のままクール宅急便でお届けできる。結構、全国各地から注文をもらっている。佐賀大学OBから定期的に注文がくると、こちらも嬉しくなるね。ただ、ちゃんぽんはどうしても賞味期限が限られるから、東京あたりだと届いてから二、三日のうちに食べてもらうことになるけどね。カレーは冷蔵すれば一ケ月は大丈夫だから、ぜひ試してみて欲しいね』
これからの抱負や夢があれば。
『特にこれといったものはないけど、何事についても「基本を知れ」ということを自分自身に言い聞かせている。ちゃんぽんの作り方についても、今までは職人の勘で作ってきたけど、歳を食って味覚が鈍化するかもしれないと、正確なレシピを記録した。変わらない味を出し続けるというのは、思ったよりも難しいものだよ。店主としての戯言だけど、お客さんも食べ方の基本を知って、美味しく正しく食べてほしいものだね。サラリーマンじゃなくて商売をしたいという気持ちがあって、池田屋を23年もやってきたけど、趣味のバイクに走りたいという気持ちもあったりする。日曜日を店休日にして、今乗ってるBMWのK1200RSで仲間とツーリングに出かけたいという欲望もあるけど、日曜日にしか来店できない常連さんも多いから無理なんだけどね(笑)』
鶏ガラや豚骨から出汁を採るちゃんぽんが主流となった現在、池田屋の和風出汁ちゃんぽんは、まさに絶滅危惧種状態である。その貴重な味がいつまでも身近に食べられるように、店主には頑張ってほしいと願わずにはいられない。そしていつの日か、「あんたちゃんぽん屋にならん?おいがちゃんとおしゆっけん」と意中の誰かに告げて、その味を承継させてほしいものである。
(注釈1)ウィキペディアの「ちゃんぽん」の項によれば、彦根と八幡浜にも和風出汁ちゃんぽんは存在しているようである。
(注釈2)四海樓の現代表取締役社長である陳優継氏の著書(『ちゃんぽんと長崎華僑』長崎新聞社、2009年、P17)では、曾祖父であり四海樓の創業者・陳平順氏の訃報が1939年4月14日付の長崎日日新聞朝刊に掲載されたと記載するとともに、陳平順氏が「ちゃんぽん」「皿うどん」の考案者だと紹介されている。
(注釈3)日本語源大辞典(小学館、2005年4月1日初版第一刷発行)では、「攙和の中国音chan-hoから」及び「チャン(鉦)とポン(鼓)を交互に鳴らしたことからか」と記載されている。(参考リンク:独りしゃべり「チャンポンの由来」)
(注釈4)既廃刊のフリーペーパー「HANAKO」の1984年4月号(創刊号)での、中村食堂店主・故中村ハルさんへのインタビュー「なかむら屋物語」で、店主自らが語っている。
(注釈5)道路拡張に伴う移転で、現在は佐賀市鍋島町蠣久で営業されている。
(注釈6)池田屋は「季楽 直販本店」に、お盆と年末年始には数量限定で佐賀牛のリブロースを使った、かなり贅沢な極上カレーも納品している。
池田屋 店舗データ
■住所
佐賀市赤松町6-11
■電話
0952-22-7508
■営業時間
11:30~15:30
18:00~21:00
■店休日
毎週木曜日(祝日の場合は翌日に振り替え)
■駐車場
店舗裏口前2台。店内で配布している池田屋ステッカーを車のフロントに置けば、近隣の漫画倉庫に駐車可。
■UD
店舗入り口には20センチ×2段の段差あり。裏口には10センチの段差あり。店内はカウンター3席と4人がけテーブルが4個。店内床はフラットだが、スペース的に余裕がないので車椅子はサポートがないと苦しい。店内雰囲気は女性の一人客でもそれほど気後れなく食べれそう。
「心のミシュラン」その他の過去ログ
■第1回(一休軒本店)
■第2回(再来軒)
■第3回(成竜軒)
■第4回(まこと)
■第5回(幸陽軒)
■心のミシュラン外伝1(佐賀ラーメン慕情・三九軒)
■第6回(いちげん)
■第7回(長浜一番)
■第8回(毎日軒)